<< Beautiful Sunday | main | 風のオベリスク・あとがき >>

風のオベリスク

遠い北海道にて。

「ウオッカが心配かい?」
メジャーは、妹のスカーレットに尋ねた。
「どうして?」
「その…ここのところ、惜しいだろう。彼女は」
「お兄ちゃん」
スカーレットは、ウオッカが映し出された画面から目をそらさず、少し笑ってみせた。
「あれはね、つきあってた男が悪かったのよ。振って正解よ」
「じゃ、今回はどうだと思ってるんだい?」
「さあ。教えない」
「…」
メジャーは少し不満だったが、黙ることにした。
凛と美しいスカーレットの横顔を見つめ、やがて彼も同じように画面に見入った。


彼女は府中のターフに颯爽と立っていた。
今日は少し風が弱いようだ。
ゆっくりと脚元の感触を確かめ、軽く走り出す。


「出てきたな、ウオッカ」
不遜な口を叩いたのは、オウケンブルースリ。
彼女と戦うのは3度目だ。
前回の天皇賞・秋はぎりぎりまで追いつめた。
「距離が伸びる今回は、むしろ俺にとってはチャンスだ。
喰ってやるさ、あの女傑を」
弾けるように彼はターフを走り出した。


今回は一人なんだわ、とレッドディザイアは思った。
今までは同世代の子たちと一緒に走ったことしかなかった。
しかも男の子と走ったのは一番最初のレースだけで、あれは練習のようなものだ。
今日は周りを見渡しても同じ年の女の子はいない。
ライバルであるブエナビスタはエリザベス女王杯に出て、敗北を喫している。
私とブエナビスタを重ねて、ウオッカさんとダイワスカーレットさんを思い出す人たちも多いようだ。
だとしたら私はどっちになるんだろう。
どちらかにはなれるんだろうか。
スカーレットさんと走れる機会は二度とない。
おそらく、ウオッカさんと走れる機会はこれが最後。
大丈夫。私だってやれる。みんながそう思ってくれたから、女の子同士で走るエリザベス女王杯じゃなくて、このジャパンカップの舞台に送り出してくれたんだ。
その舞台を見たい。出来れば、勝ちたい。
そして、一緒に走って、ウオッカさんのその風を感じてみたい。


ゲートインの前。
「随分落ち着いてるんだな、ウオッカは」
メジャーが感嘆の溜息をついた。
「お兄ちゃんに比べたら、誰でも落ち着いてるでしょうよ」
「闘争心が湧くだろ、あのファンファーレと歓声を聴いたらさ」
「気持ちは分からなくもないわ。でもねえ、多分今のウオッカには聞こえてないんじゃないかしらね」
テレビの向こうのウオッカは、淡々と足慣らしをしていた。
「聞こえてないって?この歓声がか」
「聞こえてるのはもっと別のものよ。いつの間にこんな風になったのかしら」
「お前には分かるのか?」
「勿論よ。私には分かるし、私にしか分からないものよ。そして、この子に伝えなければならないものよ」
スカーレットは愛おしそうに、そのふっくらとした腹を撫でた。


そして、スタートのときを迎える。
風は吹いていない。
全員が準備を終え、ジャパンカップが始まった。


− ウオッカはどうしてあんなに前にいるんだ?
確か前はもっと後ろの方に位置をとっていたはずだ。
作戦を変えてきたのか。
だが、俺は負けない。自分のペースで行くだけだ。
全体のペースとしては速い。ここで焦ってもなにもならない。先頭はリーチザクラウン…逃げと言えば奴のお得意の戦法だろうが、早晩潰れるはずだ。問題はなにもない。
「出来ればあの女も、巻き添えにして欲しいくらいだぜ」
ニヤリと本音を呟いた後、オウケンブルースリは更に脚を矯めた。


まずかったかもしれない。
不安がレッドディザイアの脳裏をよぎった。
ウオッカのスタートがあまりに良すぎて、一瞬どうしていいのかわからなくなったのだ。
現在の位置は中段よりやや後ろといったところだ。
しかし、ペースが速いことは彼女とて分かっている。まだ追いつける。勝機はある。
ウオッカの背中を前方に見据えながら、彼女も淡々と脚を進めていた。


「ああ………本当に憎らしいわね」
スカーレットはにっこりと笑って指を唇に当てた。
「何が?」
「分からないの?あんなに楽しそうなのよ、彼女」
「楽しいって、これはレースだろう」
「そうよ。誰もが真剣勝負をする場よ。だけど、あの子だけ違うのよ。大好きな場所で、風を感じる喜びを味わってるのは今あの子だけよ。だから憎らしいんじゃないの」
「そんな余裕があっていいのか?そろそろ最後の直線に入るぞ」


直線に入り、先頭を走っていたリーチザクラウンは何かを背後から感じた。
一陣の風。
まさか。
さっきまで気候は穏やかで………。
ちらっと見やると、そこにはウオッカがいた。
その風は一気に彼をとらえ、そして抜きさった。


「行かせてたまるか!」
外から向かってきたオウケンブルースリは、懸命に追う。
他の間をつくようなまどろっこしい真似はしない。
一番不利な大外から一気に抜いていく。


「間に合う、行ける!」
他にもまれていたレッドディザイアは道を見つけ、ウオッカの背中をとらえた。
いつもはブエナビスタが迫ってくることから逃げるだけだった。
今度は追う立場だ。
より力を込めて走り出そうとしたその時、前から切り裂かれるような強い風を感じた。
………これが………?


大外から追ったオウケンブルースリには分かった。
ウオッカのスピードが、ほんのわずか落ちている。
「ここだ!」
そしてほぼ同時にゴール板を駆け抜けた。


「これは………!どっちなんだ!?」
テレビの前でメジャーは思わず大声を上げた。
「どっちかしらねえ」
スカーレットは呑気に言うと、傍らにあったグラスを取り上げて水を飲んだ。
「きわどいぞ…判定にはかなり時間がかかるんじゃないか?」
「ああいうの、早くして欲しいわよね。終わるまで水も飲めないんだから」
「呑気なことを…」
言いながらメジャーは思い出した。まさに去年の天皇賞・秋でウオッカとスカーレットの写真判定は実に10分以上に及んだのだ。その差はたった2センチで、妹のスカーレットは敗北を喫したのだった。


届かなかった。
レッドディザイアは溜息をついた。
でも、分かった。あれだ。あれがウオッカという風だ。
奇跡のような。
私もあの風を起こしたい。
強く強く、そう思った。


そして、長い判定の末、着順があがる。
ウオッカ1着、オウケンブルースリ2着。
その差2センチ。
奇しくも去年の天皇賞・秋でウオッカ自身がスカーレットにつけた着差と同じだった。


「やられたか………」
オウケンブルースリは深いため息をついた。
追いつめたと思ったんだけどな。
距離があと100、いや50あったら俺が勝ってたはずだ。
その時、彼の耳に誰かが話している声が聞こえてきた。
「ウオッカ、すごいな。最後、肺から出血してたらしいぜ」
「それで勝てるのか。なんだろうな、あの女王は」
……なんだって?
俺が負けたのは距離じゃなかったのか。
俺は、本当に勝負で負けたのか。
ちくしょう。ちくしょう…!!
あの女と対決出来る機会があるかどうかは分からない。
でも、俺は相手が誰であろうと次も、その次も勝ちにいく。絶対だ。


「ウオッカが勝ったか。やれやれ、本当に心臓に悪かったな。
よかったのか、スカーレット?」
妹にやや気を遣いながら、メジャーは尋ねた。
果たして、妹はグラスを掲げて婉然と微笑む。
「ウオッカが勝つなんて、当然よ。殿方はともかく、同じ女で私に二度も土をつけたのなんて、あの子だけなんだから」


府中では、ウオッカが再びターフに現れていた。
吹き渡る風を感じる。
大歓声が沸き上がり、誰もが彼女を賞讃する。
彼女はただ、穏やかに微笑んでいた。


(終)
かんざき * ショートストーリー * 22:31 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

コメント

コメントする









トラックバック

このページの先頭へ